2016年08月31日

人を観る 

人を観る

外見の人を見ることは出来る。

人の心を観ることは難しい。

しかし、その人間が持つ外見の影響はあるが、

その人間の心が持つ善悪の影響は強い。

善い点を観る、悪い点を観る、

どちらを観ても心の糧となる。

しかし、人間は善い点を観れば気持ちは良いが、

悪い点を観る、嫌な思いをした場合は気分を害する。

ところが意外や、悪い点を観た方が心の栄誉になることも多い。

嫌な思いや腹立つこともあるだろうが、

ここで「仁」の心を以って、人生学問とする。

世の中に悪い人間はいないが、人道から外れた大罪は赦されない。

自分自身に関することは、仁の心で大いに学ぼう。

相手も人生学問の教材、そして自分自身も他人への教材。

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posted by 純庵 at 05:09| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月30日

理想

理想

理想とは自分の心にある。

遥か遠い存在や厳しい修行でもない。

理想とは「自分の目指すべき理の相」を想うこと。

理とは「まこと」、真、慎、信、実、誠、仁を意味する。

理までの道程は心に階段があり、

自分が目指す地点までの階段が続いている。

遥か遠くに飛ぶわけでなく、厳しい岳稜を登るわけでもない。

心を観て、心を書いて、

まずは目指すべき地点までの階段を踏む。

お金を持ち裕福になりたい、出世をしたいと同じように、

理想の道も人間としての善欲である。

理想を難しく考えずに、貯金の如くに積んでいきたい。

まずは「理想と現実は違う」などの批判をせずに階段を踏む。

理想と現実が違うのは当たり前、出来ない言い訳にはならない。

まずは日々の実践。

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posted by 純庵 at 06:28| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月28日



水は柔軟性があり如何なる形へも変化する。

水そのものの原子構造は変わらないが、

あらゆる形に合わせることも出来、

氷と云う固形にも、水蒸気と云う無形にもなる。

人間の心も水の如くにありたい。

古来、水に関する多くの哲学思想や格言なども生まれた。

しかし、実際生命の基本である水に対して感謝し、

自分の生き方を水に習う人間は少ない。

毎日、見る、お世話になる水。

日々、自分の心と水を比べ、大いに学びたい。

水は仁慈の心を持ち、多くの動植物を育んでいる。

見返りを期待することもなく、

ひたすら「尽の仁」の動きをしている。

学ぶべきことの多い「水」に心から感謝をしよう。

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posted by 純庵 at 06:33| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

変化

変化

日々、多くの事象は変化をしつつある。

天地自然の万法はまさに変化の繰り返し。

変わることを「易」、変わらないことを「不易」と云うが、

その双方によって天地自然は動き、

多くの生命を慈しんでいる。

この変化によって「進化」「退化」に分かれる。

生き抜く為に知恵がつけば「進化」となり、

反対に不要と思えば「退化」になる。

飛ぶことのない鳥の羽根は退化し、

空を飛ぶ必要がなくなる。

人間の心にも「進化」「退化」がある。

自分の心や環境を省みて、

日々、心はどのように変化をしているのかを知る。

考えることが知恵の原点、その知恵が進化につながる。

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posted by 純庵 at 05:28| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

不易 

不易

変わらないことを不易(ふえき)と云う。

易経は天地自然の万法「変化」をまとめたものである。

人生はこの「易」と「不易」の組み合わせになっている。

変えるべきところは変え、

変えなくとも良いところは変えない。

しかし、この反対の言動をとる人間は、

まず自分の心を観ようとはしない、

言動の「間」を置かない、

自分の考えに意地を張る性格が多い。

本来、心の中では理解しているはずだが、

水の如くに社会や環境に合わすことが出来ない。

水はまさに「易」「不易」の理想形である。

自分の心に変化を創れない人間は、

世の変化に馴染めないので、

まずは「易」「不易」を観ること。

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posted by 純庵 at 05:34| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日



卑怯者の「怯」(きょう)普段あまり使うことはない。

怯とは「おびえる」「ひるむ」と訓読みする。

人に怯える、心が怯むなどである。

この「怯」の漢字は「心に去る」になっている。

本来、持つべき心が去ってしまい、

自分の心が持つ力を発揮することが出来ない。

人間、持って生まれた「心の力」は強い。

しかし、多少の性格や環境、教育、躾によって強弱に差が出る。

人間である限り仕方のないことだが、

自分自身の心は自分で訓練、修養し育てなければならない。

幾ら良い指導や環境があっても、最後は自分の心で育つ。

心の弱さを社会や家庭などの所為にせず、

自分自身で心の強さを創る必要がある。

まずは自分の心を観る、心を書く、そして言動に移す。

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posted by 純庵 at 05:57| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

誇る 

誇る 

誇ることは人間として当然の行為である。

自分以外の社会や環境など誇るものは多々ある。

ただ、自分自身を誇る場合には、

口数と質量を考えて誇ることが良い。

過度の誇りは自慢に聞こえ、

話している自分自身が軽く観られることもある。

成功失敗、幸不幸は誰でもあること。

それらを過度に表現するよりも、

何事もほどほどにすべきであろう。

成功失敗や幸不幸を自慢気に話をせず、

正しき内容を伝え、口数を少なくすることが、

相手も聞き易いはず。

自分を大きく見せない、過度の表現は慎む、

会話に間を置いて、相手にも話をさせるのが良い。

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posted by 純庵 at 05:22| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

嫌な気分 

嫌な気分 

他人の言葉によって嫌な気分になることは多々ある。

その時にこそ、自分の言動を省みて、

同じような言動をしてはいないかを観る。

また、その嫌な言動を他人にしない恕(じょ)の心を持つ。

恕 じょ(己が欲せざるところ 人に施すなかれ)は、

仁徳の基本であり、人間として心得なければならない。

しかも仁徳の高位は、その嫌な言動をした相手に仁の心を持つ。

自分がその人間を通して「嫌なことを学ぶこと」が出来、

恕の心を確認出来た人生劇場の悪役である。

確かにその仁の心は難しいかもしれない。

難しいとは出来ないことではない。

出来るまで「時間を要する」ことである。

仁徳を望む、望まないは個人の自由。

でも、嫌われるより好かれた方が人生は楽。

意地を張らずに好かれる人間に力まずなろう。

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posted by 純庵 at 05:35| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

仁徳 

仁徳

仁は思いやり慈しみ、徳は仁の思いを行動すること。

元々、人間の心に仁徳の高低はない。

生まれた時は皆平等であるが、

成長するごとくにその仁徳に高低の差が生じる。

聖人として生まれる子はごく稀である。

普通の人間は育った環境によって年々変わって来る。

また、青少年期には意識せず、

壮年や、老年になってから目覚める人間もいる。

仁徳高き人間との出会い、書物との出会い、

自分の人生における失敗や不幸など、多々目覚めの要因はある。

自分の力ではなく周囲の環境や教育によって、

人生や心に大いなる変化が生じる。

これからも来るであろう仁徳の学び。

ただ、この好機を気が付かずに過ぎてしまう人間も多い。

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posted by 純庵 at 07:00| Comment(1) | 道徳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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